1日分のお砂糖

おもにカントリー・ガールズへの思いのたけを書くブログになろうかと思います

ももちの “愛” についての仮説

ももちという女の子を好きになってつぶさに見ていくうちに、自分の中に沸き起こった、何だろうこれ。というものの正体について。

愛への飢餓感。
言葉にすると違和感もありますかね。いやこの違和感こそがももちのアイドル性を高めていたようにも思っています。ひりひりするような、愛に飢えている感じ。
ももちが「みんなが私のことを愛してくれて」と言っているとき、それは本当にそう思って言葉にしてくれていて、実際に間違いない事実でもあるのですが

嗣永桃子 卒業文書』を読んでいて、やっとその正体に気付いたような気がします。ひとつだけ求めて求めて思うように与えられなかった愛があった。
つんく♂からの愛じゃなかったか。
いやこれは、嫌われてたとかそういう話ではないですよ。まったくもって違いますよ。つんく♂からのももちに向けられた言葉とか、ももちのファンになってから漁るようにいろいろ読みましたが、彼はももちを高く評価していましたよね。

だから、与えられてなかったんじゃないかと推察するのは、ももちが欲しがっていたのは、評価じゃないんですよね。
親からの愛情のようなものをずっと求め続けていたんじゃないかと思ったのです。すれ違い感。

ももち!ずっとおとももち』という楽曲は、ももちへの最大限の評価が凝縮された、いい曲だなあと思って聴きます。
でも自分の子どもに向けた曲じゃないなあとも思います。
もっと堂々と自分に自信もって自慢げに歌っていいよ!と与えられた曲を、ももちは大切に大切に慈しむように歌いました。
最後まで本当に欲しかった愛は与えられなかった。なんて仮説ですよ。ももち自身が自覚していたとも思えない話です。

けれども、つんく♂から、自分が求めている愛が与えられないという飢餓感がずっとももちの根っこにあったとするなら、どうしてももちはいつも、もっともっとと欲しがっているんだろう、いっぱいあるのに。という不思議な違和感に対して、初めて、ああ、そういうことなのかな、と自分の中で説明がついてしまったというだけの話です。

ももちがカントリーの子たちに与え続けた、母親のような愛は、自身が欲しくて欲しくて与えられなかったものじゃないのかと考えたとき、ももちはカントリーの子たちがいたことで、最後に本当に満たされたんじゃないかとも思います。

ラストライブで、わかっていたつもりだったももちからカントリーへの愛情が、途方もない、想像を越えるものでびっくりしました。溢れ出るカントリーへの愛情に言葉を詰まらせていた。

ももち卒業後、アップされるメンバーのブログを読んでは、涙が止まらなくて、何の涙なのかもよくわからなかったんですが。
カントリーの活動とか、それぞれ別れていくこととか、そういった感傷ではなく、わたしはただそこにある愛に打たれて泣いているのかもしれません。

『卒業文書』の最後に、つんく♂からのメッセージがあって、ももちと2人の写真があって、愛の物語も完結したのかなと、勝手に想像したりしています。